2011年の年間聖句を覚えられたでしょうか。ご一緒に暗唱してみましょう。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)
私達は、イエス・キリストの十字架の贖いによって買い取られ、神の霊が自分たちの内に住んでおられる、神の神殿とされているのです。
ですから、「私は、神の神殿です。」ご一緒に言ってみましょう。
「私は、神の神殿です。」
そして、「山形南部教会は、神の神殿です。」ご一緒に言ってみましょう。
「山形南部教会は、神の神殿です。」
そして、キリストの名によって救われた世界中のクリスチャンが、神の神殿であり、キリストの名によって建てられた全ての教会が、神の神殿なのです。
パウロは、「そのことを知らないのですか。」と言っていますが、この一年、そのことを忘れないで、主の恵みの中を歩ませていただきましょう。
パウロは、この素晴らしい恵みを伝えるために、何度も「知らないのですか」「知らないのですか」という言葉を使って、聖霊の恵みを、語っています。
その一つが、今日読んでいただいた6:19です。
今日の中心の御言葉は、6:19~20です。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
今日の聖書の御言葉を中心に3つのことをお話ししたいと思います。
(1)この世と妥協してはならない
14節
「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」
「わたしたちには、すべてのことが許されている。」とあります。イエス・キリストによって救われたわたしたちには、すべてのことが許されています。しかし、ただ一つだけ条件があります。それは、「主のため」ということです。それが、「主のため」であれば、すべてのことが許されます。しかし、「主のため」でないならば、この世と妥協してはならないのです。
そのことをパウロはローマの信徒への手紙1章1~2節(P291)でも言っています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
新共同訳では、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」 とありますが、口語訳では、「この世と妥協してはならない。」と訳しています。
イエス・キリストによって救われた私達は、神の子として聖なる者とされました。だから、この世と妥協してはならないのです。
四国のある町で、二、三人の若者が集まって、ほんの冗談で、町内で評判のけちんぼおやじの家に押し込んで、おどしてやろうという話になりました。
夜中になって、彼らはほおかぶりをして、「おやじ、金を出せ、金を出さないと命がないぞ。」とすごみをきかせて脅しました。
すると、金持ちは、腰をぬかすほどに驚いて、手もとにあるお金を集めて、
「どうか、これだけで命ばかりはごかんべんを。」
と這いつくばってお金を差し出したのです。
そんな雰囲気の中で、若者達は、いまさら「冗談だよ」とは言えず、お金を受け取ると「なるようになれ」とばかり、逃げ去って、そのお金で飲んだり食べたりして遊びほうけたのです。
やがて、お金がなくなると、彼らはもう一度だけやろうということになり、それを、繰り返して、とうとう本物のドロボウになってしまったというのです。
この世と妥協すると言うことは恐ろしいことです。
15~16節には、この世と妥協してはならないことが、具体的に書かれています。
「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。」
当時、コリントの町では、偶像礼拝が行われ、そこには多くの娼婦がいました。
パウロは、この世をその偶像礼拝にたとえ、このように言っているのです。
私たちの体は、イエス・キリストの十字架と復活によって、聖霊が宿ってくださる神殿とされました。
その大切なキリストの体とされた私たちが、娼婦と交わるようなことをしてはならないように、私たちはこの世と妥協してはならないといっているのです。
この世に妥協せずに、ただ、主のために、与えられた自由を用いるものとさせていただきましょう。
(2)主に結びつく者らしく偶像から遠ざかること
まず17節をご覧くたさい。
「 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。」
私たちは、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって、主に結びつく者とされました。そして、私たちの心の中に主がお宿りくださり、私たちの心の中に、三位一体の神様がおられるのです。なんという恵みでしょうか。
先週、牧師休暇をいただいて、北九州の実家に帰ってきました。
母と、三番目の弟と、甥と会うことができ、入院中の大学時代の恩師をお見舞いに行くことができ感謝でした。
少し、時間があったので、母と甥と私たち夫婦で、金子みすずの生誕の地、山口県の長門市仙﨑に行ってきました。
金子みすずは、明治36年に山口県長門市に生まれ、『若き童謡詩人の巨星』とまで称賛されながら、26歳の若さで世を去った詩人ですが、彼女は、仏教徒でありながら、キリスト教の大きな影響を受けた人です。
その詩の中に、「蜂と神さま」という詩があります。
「蜂と神さま」
蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、神さまは、
小ちゃな蜂のなかに
「蜂」を私に譬えると、この詩は、「神の神殿」とされた、私たちの心の中に、三位一体の神さまがおられることをよく表している詩だと思います。
もう一度、自分が蜂になったつもりで、この詩を聞いてください。<くりかえし>
こんな「蜂」のような、小っちゃな「わたしの中」に、世界を創られ支配しておられる、全知全能の神さまがおられるとは、何という恵みでしょうか。
そのような素晴らしい恵みが、語られた後で、パウロはこう言っています。
17~18節
「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。」
最高の祝福を大切にするために、「みだらな行いを避けなさい。」命じているのです。
それは、具体的に、生活そのものを変えなければならない場合もあります。
例えば、コリントは異教の地でしたから、異教の神殿を建てる石工がいました。その人がキリスト者になったらどうでしょうか。その仕事を捨てて、キリストに従わなければならなかったのです。
また、コリントの教会の中には、異教の神々に仕える祭司の衣服を作る仕立屋もいたかもしれませかん。彼らは、その仕事から遠ざからなければならなかったのです。
キリストに従うということは、時にはそのような厳しい決断を迫られることがあります。
それは、決して私たちを苦しめるためではなく、神様が、私たちとただ中にいてくださるという最高の祝福を与えるためにそうされるのです。
私たちの心の中に「偶像」や「みだらな行い」、自分が自分がという「自我」が住んでいたら、神様は私たちの心の中に宿ることができないのです。それらのものと、遠ざかって、聖霊が宿ってくださる神殿として用いていただきましょう。
17~18節
「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。」
わたしたちは、生ける神の神殿です。ですから、この世のみだらな行いを避け、神の神殿にふさわしい歩みをさせていただきましょう。
(3)聖霊が宿ってくださる神殿として神の栄光を現す
19~20節
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
当時、奴隷売買が行われていました。古い主人から買い取られた奴隷は、新しい奴隷のものとなり、新しい奴隷に仕えるのです。
イエス・キリストは、十字架の死をもって、私たちを贖ってくださいました。その十字架の購いによって、私たちは、罪の奴隷から自由にされ、主の僕とされたのです。そして、私たち一人一人を「聖霊が宿ってくださる神殿」として用いてくださるのです。その、私たちの内に宿ってくださる自分の体で、神の栄光を現しなさいとパウロは勧めているのです。
私たちは、自分の力や努力では、神の栄光を現すことはできません。
私は、飛行機に乗って、仙台から福岡を往復しましたが、人間は、自分の力では、どんなに高く飛ぼうとしても限界があります。オリンピックの走り高跳びの選手でも、5メートルは飛べないでしょう。
しかし、どんな人でも、飛行機に乗るなら、高く飛び上がり、雲の上の青空へと舞い上がることができるのです。
そのように、私たちは、自分の力で、神の栄光を現すのではなく、神様に全てをお委ねして、心の内に宿ってくださっている聖霊によって、神の栄光を現すのです。
そうするなら、私たちが驚くような主の素晴らしい御業を私たちの内に見せていただくことができるのです。
あるクリスチャンの姉妹の証しです。
お姑さんが、けがをして入院しました。娘さんたちやお嫁さんが交代でお世話をしました。ところが、しばらくして、このお姑さんが、認知症になってしまったのです。
そして、下の世話までしなければならなくなってしまいました。おむつを洗濯して病室に戻ると、またおむつを汚してしまうという有様で、世話をしていた女性は、ほとほと嫌になってしまいました。
病院の屋上の洗濯物の陰に隠れて、涙を流しながら祈りました。「イエス様、こんな私をご覧になっておいやでしょうね。」と語りかけると、祈りの中で、イエス様が、彼女に「あの姑を、わたしだと思ってお世話をしてくれないか。」とおっしゃられたのです。
その御声を聞いた時、彼女は、がらりと変わったのです。彼女は「イエス様、あなたのためなら何でもします。」と彼女は祈りました。すると、心が喜びで一杯になりました。喜びに満ちて病室に戻ると、「さぁ、お母さん、平気よ。何べんでも取り替えるし、何べんでも洗濯しますよ。」とお姑さんに、声をかけました。
お姑さんは、そのような介護を受けるようになって、癒されていったのです。そして、ついに認知症からも回復して退院されたのです。
イエス様に仕えるように、お姑さんに仕える姿、ここに聖霊に満たされた人の姿があります。
19~20節
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
私たちは、自分の力や努力では、決して完全な者、聖い者となることはできません。しかし、私たちの心の中に、聖霊が宿っておられます。私たちは「神の神殿です。」
その聖霊の力によってだけ、私たちは神の栄光を現すことができるのです。
もう一度、私たちの心を点検させていただき、この世と妥協することなく、偶像から遠ざかり、聖霊が宿ってくださる神殿として、神様の栄光のために用いていただきましょう。