2010年の最後の礼拝を迎えました。そして、クリスマスイブと最後の礼拝をオンヌリ教会の方々と一緒に献げることができ感謝します。
最後に今年の年間聖句からもう一度、主の御声を聞かせていただきたいと思います。
今年の御言葉は、Ⅱコリント12:9です。
「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
今年、私たちは神様からたくさんの恵みをいただきました。
特に、今年も韓国のオンヌリ教会宣教チームが一年に二度も来て下さいました。オンヌリ教会のハ・ヨンジョ先生が、どうして日本なのですかと聞かれた時、「理由はありません。片思いの愛です。」とおっしゃいましたが、今回も、大切な時間を割いて、お金を献げて、たくさんのプレゼントを山形の宣教のために用意して来て下さいました。
このオンヌリ教会の方々に、一方的な愛をもって愛して下さった神様の愛を感じます。
また、今年は教会員に3人の赤ちゃんが与えられました。加藤家に三男の義直くん、郡司家に諒一君、そして、武田靖子さんに長男の成弘くん。新しい命が与えられたことは、家族にとっては勿論でしょうが、教会にとっても大きな恵みです。
今年与えられた恵みを数えると、たくさんの恵みを数えることができますが、それと同時に、弱さを感じた一年でもあったのではないでしょうか。
病や、試練、思い通りに計画が進まないといった、「弱さ」を感じる中で、今年与えられた年間聖句が、本当に大きな励ましとなり、力となりました。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
今年、私たちに与えられた、恵みを数えながら、一年間の感謝を主にお献げしましょう。
この御言葉を中心に3つのことをお話ししたいと思います。
(1)弱さをプラスに変えてくださる恵み
今日呼んで頂いたⅡコリント12章には、パウロの弱さについて書かれています。あの大伝道者パウロにも弱さがあり、弱さと戦って人生を歩んだのです。
パウロの弱さというのは、肉体的なとげでした。
そのとげが、何であるかは、ここに書かれていませんので分かりませんが、当時流行っていたマラリヤか、パウロがダマスコ途上でイエス様に出会った時、倒れてしまったことからてんかんだったとか、「こんなに大きな字で書いています。」とパウロが言っていることから、目の病気だったのかも知れないと言われています。
それが、どのような病気であれ、パウロは、8節で、「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」と言っていますから、どんなに大変な「とげ」であったかが解ります。
そのように、このとげを取り去ってくださいと真剣に祈った時に、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という主の御声を聞いたのです。
神様が、私たちに弱さを与えられる時、その出来事には、必ず意味があります。そして、弱さの中におられるイエス様を知ることが出来るのです。それこそが、神様が与えてくださる十分な恵みです。
私たちも、信仰生活の中で、パウロのように弱さを経験することがあります。
そのような時、サタンがわたしたちの心を、神様から引き離そうと必死になって誘惑にやってきます。
神様がおられるのに、「どうして、わたしだけがこんな病気を経験しなければならないのだろう。」 また「どうして、わたしだけがこんな苦しい試練を経験しなければならないのだろう。」と思うような出来事が起きる事があります。 また、神様に熱心に祈って、従ってきたのに、祈ったことが、思い通りにならない時、神様は本当に私たちの祈りを聞いて下さるのだろうかと疑いの心がよぎることがあります。
そのような時に、もし、サタンの誘惑に負けても神様から離れてしまったら、サタンの思うつぼです。
そのような時にこそ、パウロが真剣に祈ったように、わたしたちも祈らなければなりません。
この病を癒してください。この試練から私たちを救ってください。私たちの祈りを聞いて下さい。と真剣に祈る時に、神様はわたしたちに答えを与えてくださるのです。
イエス様は、パウロが真剣に祈った時、こう語られました。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
なぜ、病の中で、試練の中で、計画通り物事が進まない中で、「わたしの恵みは十分なのでしょうか。」
それは、弱さの中にイエス様が、共におられるからです。八方ふさがりになった時、上を見上げると神様がおられるからです。全知全能の神様、そして、十字架で命を捨てて私たちを救ってくださったイエス様が共におられる、これほど、大きな恵みはありません。
今年、私たちの願いや考え通りにいかないことがありました。
一番大きなことは、12月10日にみなさんに祈っていただいて、新会堂候補地使用許可の申請に行ってきましたが、最近山形市の条例が大変厳しくなっており、許可をいただくことができなかったことです。
最初に申請に行って、「地域に根ざした宗教施設でなければ許可ができない」と言われ、地域に根ざした教会となるためにと、1年9ヶ月、松波チャペルで開拓伝道を進めてきました。断られた時は、さすがに寝られない夜を過ごしました。
けれども、祈りの中で、今までのことを思い起こして、この2年間も決して無駄ではなかった。それどころか、豊かな恵みをいただいた2年間だったと思えたのです。
一番素晴らしい事は、1年9ヶ月教会のない山形東地区で、礼拝が行われ、ホサナで児童伝道が行われて来たことです。それは、神様の大きな恵みです。
そして、松波伝道を通して、大切なことをたくさん教えられました。
その一つは、祈りです。
早天祈祷会で真剣に祈り、月に一回連鎖祈祷や、半徹夜祈祷会でも祈りのタスキを繋いできました。韓国でも祈られ、山形南部教会に来られた先生方には、みんなあの地にお連れして、祈っていただきました。
そして、もう一つは、伝道の使命に立つことです。
今日は、オンヌリ教会宣教チームの方々がおられますが、松波伝道に、多くの助け手を送って下さいました。猛暑といわれた夏に、オンヌリ教会宣教チームの方々と一緒に、脱水症状にならないようにとペットボトルに水を持って、チラシやマグネットを配りました。また、今年は特別に、北海道教区宣教チームや神学生も送って下さいました。
また、地域に根ざした教会を目指して、今年の夏にはパソコン教室が行われ、キッズ・ブラウンの英会話教室も始まりました。そして、秋には松波フェスタが行われ、100人以上の方々が集われました。
神様に、この2年間を通して大切さを教えられてきました。
それなのに、なぜ、法律の新会堂建築の扉が開かれなかったのでしょうか。それは、今の私たちには分かりません。
先日お話しをしたように、じゅうたんの刺しゅうは、裏の糸はもつれ合って、よく分かりませんが、完成して、表を見ると、どの糸も無駄な糸がなく、美しい模様を描くように、私たちに起こる出来事は、かみさまのあっては、何一つ無駄なことはないのです。
けれども、「神にできないことは何一つありません。」全知全能の神様の許しがなければ何事も起きません。その神様の御手の中で、新会堂候補地が止められたのですから、私たちの願いや考えを超えた、主のご計画があり、最善の御業を主がこれから進めてくださることを信じて前進させていただきましょう。
12:9
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
パウロが、肉体のとげが与えられて、大変な苦しみの中にあっても、「わたしの恵みはあなたに十分である」と語られたように、私たちも困難な情況の中にあっても、その弱さの中にイエス様は共におられるのです。
そして、全てが神様の御手の中で、プラスに変えられるのです。そこにこそ、十分な恵みがあります。
(2)わたしたちを謙遜にしてくださる恵み
7節
「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」
パウロは、肉体にとげが与えられ、耐えられないような苦しみの中で、三度も、このとげをとって下さいと祈ったのです。しかし、そのとげは取り去られず、「わたしの恵みはあなたに十分である。」と言われたのです。
なぜ、こんな状態で、恵みが十分だと言えるのでしょうか。
それは、私たちが「思い上がることのないように」、謙遜になるための恵みです。7節の中に二度も「思い上がることのないように」「思い上がらないように」と書かれています。
パウロは、ユダヤ人の中でもエリート中のエリートでした。
11:22以下にこう書かれています。
「彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。・・・」 とパウロ自身の地位とキリスト者としての業績が書かれています。
そのようなパウロですから、パウロにこのとげが与えられなかったら、主に頼ることをせず、自分の力を誇っていたかも知れません。しかし、「誇ることのないように」神様は。パウロに肉体のとげが与えられ、その苦しみや弱さの中で、主を頼らざるを得なくしてくださったのです。
そこで、パウロは、自分に一つのとげが与えられたことも主から与えられた恵みの一つとして数え、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と告白しているのです。
自らの弱さを感じる時、それは、謙遜になるチャンスです。
そして、最も弱くなってくださったお方、もっとも謙遜になられた方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
フィリピ2:6~8
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
今年のクリスマスイブは特別な集会でした。それは、オンヌリ教会の方々が、十字架のスキットと、映像を見せてくださったからです。受難節なら、十字架の映画を観たことがありますが、クリスマスに、リアルな十字架の映像を観たのは初めてでした。そして、あの映像の通り、イエス様は、十字架で全人類の罪のために死なれるために、この地上にお生まれになったのです。
全ての赤ちゃんは、生きるために生まれてきますが、イエス様だけは、死ぬためにお生まれになったのです。
イエス様は、神の子でありながら、人間と同じ姿になってくださったお方です。誰よりも弱くなってくださり、へりくだって、あらゆる苦しみ経験されて、最後は十字架で命を捨ててくださったのです。
ですから、私たちが、弱くなればなるほど、へりくだればへりくだるほど、イエス様に近づくことが出来るのです。パウロはそれ以上の恵みは他にはないと言っているのです。
神様の恵みは、低いところに流れます。私たちが、どこまでも弱くなり、へりくだるとき、主の恵みは豊かに注がれ、イエス様に似た者へと変えられるのです。
その一番低いところに、イエス・キリストの十字架の恵みと愛があるのです。
私たちも、イエス様がそうであられたように、どこまでもへりくだって、この十字架に表された十分な恵みと、十分な力に与りましょう。
(3)わたしたちの弱さの中に十分発揮される力
9節を御覧ください。
「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
ここで注意してみたいと思うのは、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と書かれているところです。
神様の力は、私達の弱いところを隠して、強くなれば、「力が十分に発揮される」とは書いていないのです。
私達の「弱いところ」出来れはこんなことが無ければ良いのに、こんなところは人には見せたくないと思うような、「弱さの中に」神様の力は完全にあらわれるのです。
私たちが、自分の力やこの世の力に頼る時、神様は十分にその力を発揮することは出来ません。しかし、「わたしには何も出来ません。」と自分の弱さを告白して、全面的に神様に依り頼むなら、神様は必ず、私たちに十分な力を与えてくださるのです。
西村隆さんの書かれた「神様がくれた、弱さとほほえみ」という本があります。
隆さんが、最初にイエス様のことを知ったのは、小学校4年生の時でした。腎臓の病気になって、1年半も入院をしたのです。その時に、たまたま同室のお見舞いに来た、YMCAのチャプレンが、トラクトを渡してくれたのです。
退院をして、中学校になった時、教会に通い始めました。そして、高校2年生の時に、イエス様を信じて、心の中にイエス様をお迎えしたのです。
そして、この神様の愛を一人でも多くの人に伝えたいと牧師になる決心をして、関西学院大学の神学部に入ったのです。
でも、「言葉で神様の愛を伝えることも素晴らしいことですが、目の前にいる人達を助けたい」と思って、福祉に進路を変えて、神戸の聖隷福祉事業団に就職しました。
そこには、体にハンディーをもっている人達がたくさんいましたが、ある人が、こんな質問をしたのです。「神様がいるなら、なぜ、ぼくにこんなに重たいハンディーを与えたの?」その悲しそうな顔を見た時に、隆さんはどう答えたらいいのかわかりませんでした。
やがて、隆さんは結婚をして、二人の子供が与えらて幸せな生活をしていましたが、そんなある日、缶ジュースを買って開けようとしても開けられなくなったのです。それから、つまずいてもいないのに転んでしまって大けがをしてしまったのです。病院に行くと、筋肉が弱ってしまう筋萎縮症だということが解りました。「歩くことも、食べることも、話すことも」難しくなってしまいました。そして、病気になって2年たって3番目の子供が生まれましたが、その子供もハンディーをもって生まれたのです。
でも、隆さんは「もう駄目だ」と思ったと思いますか?「神様なんかいるもんか」と思ったと思いますか?
そうではありませんでした。病気と戦うのは大変ですが、心の中にはいつも変わらない平安と希望がありました。何故でしょう。それは、隆さんの心の中に、インマヌエルのイエス様が共にいてくださったからです。
そして、家族みんなで、助け合って、隆さんを助けてくれたのです。そして、自分の病気を恥ずかしがらないで、病気の人の立場から、論文を書いたり、本を書いたりしたのです。
この西村隆さんが、こんな文章を書いています。
「病気は確かに、いのちを含めて多くのものを奪い続けています。にもかかわらず、全く失っていないものがあり、なお、病気になって得たものも確かにあります。「何で神様はハンディーを与えたの?」とかつてわたしに聞いた若者に、今なら応えられるような気がします。この本も答えの一つのつもりで書きました。この病気で、神様が身近に感じられるようになりました。苦しみにあったことは本当に幸せでした。」
この最後の「苦しみにあったことは本当に幸せでした。」というこの言葉は、本当にすごい言葉だなと思いました。だんだん体か弱って、いつ死んでしまうかわからないのに、「苦しみにあったことは本当に幸せでした。」と言えるなんて本当にすごいと思います。どうして、こんな事が言えるのでしょうか。それは、イエス様が、隆さんといつも共にいてくださるからです。そして、たとえ、この世の命が終わっても、永遠の命が約束されているからです。
最後に9~10節を御一緒にお読みしましょう。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分に発揮されるのだ。」と言われました。だから、キリストの力がわたしたちの内に宿るように、むしろ喜んで自分弱さを誇りましょう。。」
私達には、弱さがあります。けれども、私たちが弱さを覚えて、どうしようもないと思うような時でさえ、「わたしの恵みはあなたに十分である。」神様の恵みは十分に注がれているのです。そして、主を見上げるなら、その弱さを通して、私達は謙遜にされ、神様は、弱い私たちを通して、十分に力を発揮してくださるのです。
弱い私たちに与えられる十分な恵みと、十分に発揮される力を見せていただきましょう。
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